また静寂が訪れ、気まずい空気に、日葵は息が詰まりそうになる。「ここで降ろしてほしい」そう言えればいいのに、帰る場所は同じだった。この何年かの間、会わなかった時間を簡単に埋められないのは、それ以前の時間があまりにも濃密だったせいかもしれない。生まれたときからずっと一緒にいたからこそ――今、大人になった壮一とどう接すればいいのかわからなかった。それは、壮一も同じなのかもしれない。もし、あんな別れ方をしていなければ。思い出話や、会わなかった間の出来事を話せたのかもしれない。けれど、今の二人には、それができなかった。無音の車内。気まずさに耐えきれなくなったのか、壮一がオーディオのボリュームを上げた。車内に流れたのは、聞き覚えのあるメロディーだった。「あれ? この曲……」どこかで聞いたことがある。そう思いながらも思い出せず、日葵は首を傾げた。切なくて甘い――オーケストラが奏でるその音楽は、驚くほど美しかった。「エンディングにしようと思ってる」その言葉で、すぐに今開発中のゲームのことだと理解する。日葵は耳を傾けた。「すごく素敵」思わず零れた言葉に嘘はなく、なぜか泣きたくなった。壮大なRPGのラストを飾るのに、ふさわしい曲だと思った。戦い、人間模様、それらを美しい映像と音楽が彩る――そう考えると、改めて壮一のすごさを感じずにはいられなかった。「やっぱり、天才だね」自然と零れた言葉。返事はないと思っていた。だからこそ、壮一の意外な言葉に驚いた。「それなら、日葵のおかげだろ」「え? 私の?」予想もしていなかった言葉に、日葵は自分の耳を疑う。「俺がピアノを始めたのは、日葵のためだよ」初めて聞く話に、日葵は呆然と壮一を見た。「どうして?」そう問いかけると――久しぶりに見る壮一の笑顔に、日葵の心臓が跳ねる。「小さい頃、日葵がピアノを弾くと、笑ったから」その言葉に――日葵の心は、ぎゅっと潰されるような感覚に襲われた。それ以上、会話が続くことなく、すぐにマンションのエントランスに到着した。日葵は、ちらりと壮一を見た。(……どうしてエントランス? 駐車場は地下なのに)疑問が浮かび、小さな声で問いかける。「チーフ……車は停めないんですか?」「いいから、長谷川。早く帰って寝ろ。顔色が悪い」日葵を見ることな
そんな時、目の前の電話が鳴り、日葵はハッとして受話器を取った。『長谷川さん、サニープロダクションの奥野様がお見えです』その言葉に、日葵は気持ちを入れ替えると、資料を手にフロアを出た。ミーティングルームに案内し、目の前の二人に挨拶をする。30代後半くらいの爽やかな印象の男性――奥野。そして、20代後半くらいのスーツ姿の男性――三ツ谷。「ではここで、開発者と社長の挨拶で大丈夫ですよね?」「はい、あと、この時間にゲームの体験を行いたいです」その言葉に、奥野も頷きながら、考え込むような表情を見せる。「わかりました。その時の段取りや企画については、またまとめてご提案させていただきます」テキパキと三ツ谷に指示を出しながら進める奥野に、日葵も「お願いします」と頭を下げた。「それで、12月24日のプレスリリースですが……」「え?」その言葉に、日葵は慌てて資料をめくる。(うそでしょ!)「長谷川さん?」日葵の様子に気づいたのか、奥野が不安げに声をかける。「奥野さん、プレスリリースって、もう……?」「はい……」奥野の言葉に、日葵は真っ青になった。確かに、資料には「12月24日」と書かれている。けれど――社内用のタブレットには『12月31日』と記載されていた。(こんなの無理……!)ただでさえ、今のスケジュールでいっぱいいっぱいなのに、1週間も早まるなんて考えられない。プレスリリースとなれば、ある程度の情報を公開する必要があるし、それがどれほど売上に影響するかなど、誰だって分かることだ。「あの……あっ……上司に相談させてください」何とか言葉を絞り出し、日葵は奥野たちに頭を下げる。「長谷川さん、我々も最善を尽くします。とりあえず今日は……」奥野の優しい言葉が、さらに申し訳なさと焦りを煽る。心臓が、バクバクと音を立てる。二人を見送ったあと、泣きたい気持ちを必死に抑えながら、壮一の部屋へと向かう。(私のせいで、みんなに迷惑をかけてしまう……)どこか、最近浮ついたような気持ちがあったのかもしれない。ぎゅっと唇を噛みしめ、震える手でノックをする。「はい」凛とした声が聞こえ、日葵はドアを開けた。「長谷川?」キーボードに手を置いたまま、パソコン画面を見ていた壮一が、日葵のただならぬ空気を察し、ヘッドフォンを外してこちらを見た。
「すぐにもう一度スケジュールを組み直す。進捗状況を確認しろ。長谷川! お前はもういい! 行け!」「でも……」「お前が今ここにいて、どうするんだ!」その冷たい言葉に、自分の無力さを痛感する。(泣くな! 泣くな、私。泣く資格なんてない……)「はい。本当に申し訳ありませんでした」もう一度深く頭を下げ、部屋を後にすると、こらえていた涙が零れ落ちそうになる。そんな醜態を晒すわけにはいかず、化粧室に向かおうと小走りに廊下を進んでいたとき――「長谷川?」休憩室にいたのだろう、崎本に呼び止められた。完全に涙が頬を伝っていた日葵は、崎本の顔を見ることができず、足だけを止める。背後から近づく足音が聞こえる。(お願い……今は誰にも会いたくない)こんな顔を見られたくないし、今、優しくされることなど許されない。「どうしたんだ?」日葵の異変に気づいたのか、崎本が覗き込んでくる。「どうして泣いてる? 何かあった?」優しい問いかけに、日葵はブンブンと首を振った。「なんでもありません。少しミスを……」そこまで言った瞬間、冷ややかな視線を感じ、日葵は振り返った。「チーフ……」コーヒーでも買いに来たのかもしれない。けれど、壮一の目に映るのは、凍りつくような冷たい視線。その瞳に射抜かれ、心臓がバクバクと音を立てる。指先が、一気に冷たくなるのが分かった。「お前の今やるべきことは、それか?」呆れたようなその言い方に、日葵の心は真っ黒に塗りつぶされた。「ちが……失礼します」それだけを絞り出し、日葵は化粧室へと駆け込んだ。やるべきことは分かっている。社内のすべての書類や手配をやり直さなければならない。社内のスケジュールは「12月31日」になっている。 けれど、どこで「24日」が先方に伝わったのか、未だに分からない。そして――その原因を探ることに、もう意味はないことも。なんとか涙を止めようと、トイレの個室で必死に呼吸を整える。それでも、先ほどの壮一の冷たい声が頭から離れず、涙が止まらない。これこそ、今すべきことではないのに……5分ほどして、ようやく涙を抑えると、日葵は鏡をじっと見つめた。(今すべきことは、仕事)音が鳴るほど自分の頬を叩き、気持ちを奮い立たせる。そして、まっすぐ事業部へと戻った。ほとんど誰もいないフロアに、ホッと息を吐
(あっ、満月……)吸い寄せられるようにベランダへと出て、夜空を見上げた。真っ黒な空の中、ぽっかりと浮かぶ真ん丸の月が、静かに日葵を見下ろしている。ポロポロと涙がこぼれるのも拭うことなく、ただじっと月を見つめていた。その時――カタン突如、小さな音がして、日葵はハッとしてそちらに目を向けた。「こっち来て」静かに響いた声は、薄い防災壁の向こうからだった。壮一の声。その言葉の意味をすぐには理解できず、日葵は目を見開いた。「長谷川、こっちこい」長谷川、と呼ばれると抵抗できない。(ずるい)そう思いながらも、一歩一歩、二人を隔てる壁へと足を踏み出す。壮一の姿が見えないからこそ、近づくことができる。「ごめんなさい……」申し訳なさで、それしか言えなかった。壁にそっと手を添え、呟くように謝罪の言葉を述べる。「こっち」「え?」不意に響いた壮一の言葉の意味が分からず、日葵は聞き返した。「長谷川、外を見て」促され、日葵は視線を外へ向ける。そこには、壮一の手だけが見えていた。少し躊躇するような、掠れた声。その響きに勇気を出し、日葵はそちらへと向かう。そして――覗き込むように、壮一の視線と交わった。「チーフ、本当にご迷惑をおかけして……」「あーあ」日葵が言い終わる前に、壮一の声がかぶさる。その言葉の意味は分からなかった。でも、なぜか――壮一が泣きそうに見えた。日葵は、ただじっと壮一の瞳に映る自分を見つめる。その綺麗な瞳が揺れていた。「……悪かった」静かに響いた言葉に、日葵はブンブンと首を振った。「私が……」「いや、俺だって確認すべきだったし、もしかしたら見ていたかもしれない。なのに……あんな頭ごなしに……」その言葉を聞いた瞬間、ふっと力が抜けた。ほっとした途端、押し込めていた涙があふれ出す。嗚咽を漏らした頬に、ふいに温もりが触れた。驚いて顔を上げると――「長谷川、泣くな。大丈夫だから」優しく響く壮一の言葉。どれだけ、あの冷たい視線が自分を落ち込ませていたのか。日葵自身、気づいていなかった。優しく、壮一の指が涙を拭う。それを拒むことも、何か言葉を発することもできなかった。ただ、その手が温かくて――されるがままになっていた。そっと、頬を壮一の両手が包む。「ここ、叩いた?」撫でるように、昼間
週末になり、相変わらず休みなく働く壮一たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、日葵にできることと言えば、コーヒーを淹れることぐらいだった。「お前たち、もう上がれよ。たまには週末楽しんでこい」首を軽く回しながら言った壮一の声に、日葵と柚希は目を合わせる。「チーフ、お疲れですよね?」心配そうに声を掛けた柚希に、壮一はふわりと笑顔を見せ、軽くデコピンする。そんなやり取りを、日葵はただ見ていた。「お前みたいなひよっこに心配されるほど、年取ってない。早く帰れよ。……長谷川も」まるでおまけのような言い方に、日葵は小さく頷くと、視線を逸らしながらカバンに荷物を詰め込んだ。「柚希ちゃん、今日は終わろうか」なんとか先輩らしく振る舞い、柚希を見ると、柚希はなおも不安げな表情で壮一を見ていた。日葵とて、壮一のことを心配していないわけではない。目の下にははっきりとしたクマができ、顔色も悪い。気になって仕方がなかった。でも、それを言葉にすることも、態度に表すことも、今の日葵にはどうしてもできなかった。***一人で帰る気になれず、日葵はスマホを手にする。呼び出したのは同僚の佐奈。会社から一駅離れた、落ち着いた店を指定し、先に待っていた。普段あまり飲まないビールをチビチビと口に運びながら、ため息ばかりついている。「日葵。お疲れ」不意に聞こえた声に、俯いていたことに気づき、日葵は顔を上げた。「ごめん。ありがとう」小さく微笑んだ日葵に、佐奈は苦笑する。「なに? 疲れすぎじゃない? それとも何かあった?」適当に料理と飲み物を追加しながら、日葵はまた大きなため息をついた。「日葵、ため息つきすぎ。理由は仕事? それとも?」何かを察しているのか、佐奈にじっと見つめられ、日葵は言葉を選ぶ。「仕事で大きなミスをして落ち込んでる」そう言うと、佐奈は「そう」と軽く相槌を打った。「それと?」「え?」佐奈の問いに、日葵は意外そうに佐奈を見た。「ミスの大小はあれど、そんなこと今までに山ほどあったじゃない。そのたびに、こんなに目の下にクマを作って寝不足になったの、見たことない」佐奈の言葉に、日葵は言葉に詰まる。どうして、これほどまでに今回のミスが自分を落ち込ませているのか――分かるようで、分かりたくない気持ちだった。「昔から親同士が家族ぐるみで付き合
「日葵、話したいならきちんと説明しなきゃ」 鞠子の言葉に、日葵は言葉に詰まる。「つまりね、日葵は淡い恋心を清水チーフに持っていたのに、清水チーフは日葵に何も言わずにアメリカに行ってしまった。ずっとずっと一緒にいたのに」 代わりに簡潔に説明した鞠子の言葉が、日葵の心の中に突き刺さる。(やはり壮一は私を捨てた)「でも、どうして清水チーフは何も言わなかったんですかね? 何も言えなかったってこと?」 黙って聞いていた佐奈だったが、少し考えた後、日葵が考えたことのなかったことを口にした。(言えなかった?)「そうかもしれないわね」 そう答えた鞠子の言葉に、日葵の中で「どうして?」が駆け巡る。「それで、清水チーフに迷惑をかけたことが、日葵は引っかかってるの? それに、やっぱりまだチーフのことが気になるから、誰の誘いにも乗らなかったってこと?」 一人納得したように言う佐奈の言葉に、日葵は思わず声を上げる。「違う! そんなことは絶対ない! 私はもうそうなんて、壮一なんて……」 ついムキになって言ってしまい、日葵は言葉を止めた。「日葵……」「どうして私をこんなに振り回すのよ……。大嫌いなのに……」酔いも手伝って、呟くように言った日葵を、二人はただ見ていた。千鳥足でふわふわとしながら、タクシーを降りてエレベーターに乗り込む。「遅かったな」「え?」 誰もいないと思って乗ったエレベーターから聞こえた声に、日葵は目を丸くする。「チーフ……」 地下駐車場から乗ってきたのだろう、壮一に出くわして、日葵は言葉に詰まる。「気分転換できたか?」「あ……はい。先に帰ってすみません」「別に仕事もないのに残ることないだろ?」 その辛辣な言葉に、日葵は言葉を失った。「あっ、悪い。そういう意味じゃない」 日葵の顔色が変わったのに気づいたのか、壮一は小さくため息をついた。「どういう意味ですか?」 もう半ばヤケになり、日葵は顔を上げて壮一を見た。「無理をさせたくないだけだ」 いきなり言われたその言葉に、(柚希ちゃんをじゃないの?)と素直じゃない思いが溢れる。「誰をですか? かわいい柚希ちゃん?」「はあ?」 苛立ちを含んだその言葉と同時に、エレベーターは二人の階へと着き、音もなく扉が開いた。「ほら、降りろ」酔っているからだろうか、感情がコントロー
日曜日、崎本と昼に待ち合わせをしていた日葵は、朝早く目覚めてしまい、ため息交じりにベッドから降りた。壮一がいなくなったあの日から、ことごとく男の人を寄せ付けてこなかった日葵にとって、男の人と二人でどこかへ行くことは、やはり気が重かった。そんなことに慣れてもいないし、何を話すべきかもわからない。そんなことを思いながらも、日葵はいつも通り化粧をして、仕事のときよりは少しだけ明るい色の服を選ぶと、鏡に映る自分を見た。男の人とどこかへ行った記憶と言えば、壮一以外ない。その事実に気づき、自分でも少し自嘲気味な笑みが零れる。(私、何をしてたんだろう)別に壮一に義理立てする必要などもちろんなかったのに、結果だれとも付き合うことなく男嫌いのようになったのは、まぎれもなく壮一のせいだ。日葵はそんなことを思いつつも、まだ待ち合わせまで時間があるが出かけることにした。今日は壮一に会わなかったことに安堵して、待ち合わせの駅へとゆっくり歩く。梅雨ももうじき終わり、本格的にやって来るだろう夏を前に、少しだけ暑くて、日葵は長袖のカーディガンの袖をまくった。「長谷川」不意に聞こえた声に、日葵は振り返った。そこにはラフな格好をした崎本がいて、日葵は驚いて目を見開いた。「部長……早くないですか?」「それを言うなら長谷川もだろ?」確かにその通りだ。崎本が早いのなら、日葵も早いに決まっていた。お互いどちらからともなく笑いが漏れる。「ようやく長谷川が出かけることを了承してくれたと思ったら嬉しくて」サラリとその言葉を言う崎本は、大人で恋愛経験も豊富なのだろう。私服の崎本は、実年齢よりも若く見え、壮一とは違った魅力をもっている。優しそうで誠実そう。そんな印象を持つ人が多いだろう。そんなことを思いながら、日葵は正直に崎本に話すことにした。「部長と違って私は、あまりこういう経験がないので……どうしていいかわからなくて」最後の方が、こんなことを告白している自分が恥ずかしくて、日葵の声は小声になる。「え? 長谷川が?」意外そうな崎本の言葉に、日葵は小さくため息をついた。「どういう意味ですか?」「ごめん。それだけ可愛いし、モテてるし、意外だった。悪い意味じゃない」そう言うと崎本は優しく微笑む。「長谷川は何もしなくていい。今日は俺に付き合って?」その優しさに、
「長谷川、ここで待ってて。飲み物買ってくる」少し先にあるコーヒースタンドを指さす崎本に、「ありがとうございます」と日葵は素直に従った。ここ最近、仕事でもミスをしたり、多忙を極めていた日葵は、ベンチに座るとぼんやりと海を眺めていた。昼過ぎの天気のいい海沿いは、キラキラと光が反射してとても綺麗だった。「はい、コーヒーでよかった?」手に二つのカップを持った崎本に、日葵は小さく頷くとそれを受け取った。「部長、ありがとうございます」そんな日葵の言葉に、崎本は柔らかい微笑みを浮かべると、日葵の横へと腰を下ろす。「何を考えてた?」「え?」いきなり言われた質問の意味がわからず、日葵は隣の崎本を見た。「とくには何も……。久々だなって。こんなゆっくりとした時間って」日葵のその答えに、崎本はホッとしたような表情を浮かべた。「向こうから戻ってくる時、あまりにも長谷川の横顔が遠くを見てる気がして、なぜか知らない人みたいに見えた」そこまで言った崎本は、めずらしく苦笑すると「何を言ってんだよ俺」と海に視線を向けた。「部長……」最近いろいろありすぎて、現実逃避していたのかもしれない。そんな心情が出ていたのだろうか?そんな真剣な崎本に、日葵の中にだんだんと疑問が湧き上がる。こんな中途半端な気持ちを持っている私が、部長のそばにいていいのだろうか?真剣に自分と向き合ってくれていることが、今日一緒にいるだけでも痛いほど日葵には伝わった。「あの、部長」「ん?」優しく微笑まれ、日葵はどう言葉にしていいか思い悩む。「今日は誘っていただいてありがとうございました。それで。あの」うまく言葉が見つからず、言葉を止めた日葵が何を言いたいのか、崎本は悟ったのだろう。「清水君? 長谷川をこんな風にしたの?」その言葉に、日葵は驚いて顔を上げた。「図星か」日葵の表情が、YESと答えてしまっていたのかもしれない。何も言えずにいた日葵に、崎本は髪をかき上げると小さく息を吐いたのがわかった。「聞いてもいい?知らないと俺はどうしようもできないから。それに、俺はずっと長谷川に好意を持っていることを伝えてる。聞く権利はあるよな?」珍しく強い口調の崎本に真剣な瞳を向けられ、日葵は小さく頷いた。日葵はキュッと唇を噛んだ後、ゆっくりと言葉を発した。「清水チーフとは、幼馴染ってことは言いま
その後、運転を変わるという壮一の言葉に、日葵は素直に従うと助手席へと移動した。コーヒーを飲みながら、ぼんやりと外の風景に目を向けた。そして、初めのころの壮一の態度を思い出した。「ねえ? どうして謝る気になったの?」すっかりさっきのままため口になっていたが、日葵はそれに気づかず、胸の中の棘が抜けたような気持ちだった。そして少し意地の悪い質問だと思ったが、日葵は初めのころの態度とは違う壮一に問いかけた。「ああ……」壮一は少し考えるような表情をしたあと言葉を発した。「戻ったばかりのときは、日葵をこんなに傷つけてるなんて思ってなかったんだよ。大人になった日葵は、もしかしたらあの時のことなんてこれっぽっちも気にしてない。その可能性だってゼロではないだろ?」確かに、この離れていた時間のお互いのことはわからない。その可能性だってなかったわけではない。日葵はそう思うと小さく頷いた。「じゃあどうして?」「もちろん、日葵の態度でも気づいた。極めつけは誠真だな」意外な言葉に日葵は驚いて目を見開いた。「誠真? どうして誠真?」いきなり出てきた弟の名前に、日葵は声を上げた。「こないだ久しぶりに飲んだんだよ。あいつ日本に帰ってきただろ?」弟の誠真は大学を卒業後、壮一の父親である会社に入社し一年間アメリカへと行っていた。「そういえば帰ってきたわね。あの子」「あの子ってお前。誠真だって大人だろ」壮一が少し笑って言ったのを聞いて、日葵も少し笑みを漏らした。「それで?」「親父の会社に入ったけど良かったかって。俺だって誠さんの会社に入ったわけだし、全く問題ないって答えたよ。本来、やりたいことが逆だったらよかったなって話をした」確かに壮一も誠真も、自分の父親の仕事を継ぐのがよかったのかもしれない。でも、今はまだお互いのやりたいことが逆だ。「そうだね」そう答えた日葵は、チラリと壮一に視線を向けると、瞳がぶつかる。どちらからともなく視線を逸らすと、壮一が静かに言葉を発した。「その時聞いた。どれだけ日葵が傷ついて、目も当てられないほどだったかって……」(誠真……)確かにあのことは、誠真の優しさもすべて無視して、一人の世界にこもっていて心配をかけたのだろう。「めちゃめちゃ怒られた。あの誠真に。大人になったな」「そうだね」怒ってくれた誠真の気持ちが
荷物を乗せると、日葵は運転席へと向かう。「長谷川! 本気か?」慌てたような声に、日葵はジッと壮一を見た。「すごいクマです、チーフ。きれいな顔が台無しです」なぜかスラスラと言葉が出て、日葵はホッとした。「危ないと思ったらすぐに言えよ」ハラハラした言い方の壮一を助手席に乗せると、日葵は車を発進させた。日葵は車の運転が好きだった。都内ではあまり乗る機会はなかったが、仕事に必要だろうと免許も取得していた。「本当だ。うまいもんだな」隣でホッと安堵したような壮一の声に、日葵も少し微笑んだ。「眠っていってください」そう言葉にしたところで、日葵は視線を感じチラリと壮一を見た。「チーフ?」「いや、本当にいろいろ悪かったと思って」もう日葵を見てはおらず、壮一は窓の外を見ていた。「あの……」「なに?」静かにゲームのインストルメントが流れる車内で、日葵は口を開いた。「“いろいろ”って何ですか? 行きの車で言われたことを考えていたんです。完璧でいたかったからアメリカにって……それがどうして、どうして何も言ってくれない、につながったのか」これを聞かなければ、自分自身が前に進めないような気がした。静かに少しずつ尋ねる日葵に、壮一が自嘲気味な笑みを浮かべたのが分かった。「逃げたんだよ。全部から」「え?」その意外な言葉に、日葵は反射的に壮一を見た。「日葵から、すべてから。日葵に行くのを止められたら、きっと行けなかった。でもあの時の俺は、苦しくて、どうしても逃げ出したかった」そんな葛藤があるとはまったく思っていなかった日葵は、ギュッとハンドルを握りしめた。「それも完全なおれの自己満足だったってことに、ようやく気付いた」「私から逃げたかったの? 私のせいだった?」つい零れ落ちた自分の言葉を止めようと思った時にはもう遅く、壮一がシートから起き上がるのが分かった。「違う。日葵、それは違う。すべて俺が悪いんだよ。お前は何も悪くない」静かに、真剣な表情の壮一に、日葵は涙をこぼさないように何とか運転に集中しようとした。「日葵、次のサービスエリアで止まって」その壮一の言葉に、日葵もこれ以上運転をして危険があってはいけないと、サービスエリアに車を止めた。「コーヒーでも飲もうか」壮一の言葉にも、日葵はそのままジッと止まったまま動けなかった。「だっ
(謝罪されたことで、きっと心が緩んだだけよ。今更こんな不毛な恋はするわけにはいかない)そう心に思っていたところで、ドリップコーヒーにお湯を注いでいた壮一が言葉を発した。「いくら仕事とはいえ、崎本部長に悪いな」「え?ち……」壮一の言葉に、やはり自分と崎本が付き合っていると思っているのかもしれない。日葵はそう思い、否定の言葉を言いかけたが、さっき自分が決めた気持ちを思い出す。壮一にまた傷つけられるのも、壮一が自分を思うことなど絶対にない。私みたいな普通の女。今ならまだ戻れる。そう思うと、日葵は否定するのをやめた。「私こそ、柚希ちゃんに申し訳ないです」「え?柚希?」その言葉に壮一が今度は聞き返した。しかし、やはり否定の言葉はなく、沈黙が二人を包んだ。無言で差し出されたコーヒーに、なぜか泣きたくなる気持ちを抑えながら、日葵は手を伸ばした。(どうして、どうしてこんなに私の心を揺さぶるのよ……)コーヒーの苦みと熱さが、さらに追い打ちをかけるように日葵の心に影を落としていった。ふわふわとした気持ちの中、日葵は昔の夢を見ていた。手を伸ばすと、いつも笑顔の壮一が優しく手を差し出してくれる。それを何の迷いもなく、ギュッと握りしめる。そんな毎日が永遠に続く夢を。夢と現実の境目がわからないまま、日葵はその心地よい揺れと温もりを離したくなくて、手を伸ばした。しかしそれはあっけなく空を切り、小さな衝撃とともに体がその温もりから離れていく。日葵はそれをなんとか阻止しようと、もう一度手を伸ばした。しかし、あの暑い夏の日、何も言わずに冷たい視線を向けて背を向けた壮一へと、夢は変わっていく。そのことが悲しくて、意味がわからなくて、日葵は伸ばしていた手をギュッと握りしめた。「どうして……?」言葉になったかわからないつぶやきを漏らしながら、自嘲気味な笑みがこぼれる。夢の中でさえ、結末は同じ。あの夏は何も変わらない。そんなことが頭の中をぐるぐると巡り、この夢から早く解放されたくて、頬を涙が伝う。「日葵……」小さく呟かれたその声が聞こえたような気がした。そして、そっとさっきまでの温もりが日葵の頬に触れ、静かに涙を拭うのが分かった。どうして?少しぎこちなく、昔のように触れてくれないその手がもどかしい。夢と現実のはざまがわからないまま、日葵は
「長谷川さんすごいな。何か国語話せるの?」 営業部の課長の澤部が驚いたように声を掛けた。「ああ、日常会話程度です」「さすがだね、長谷川さん」 今回同行している、日葵の父の代から会社を支えてきた専務・近藤が、にこやかに現れた。日葵の素性も、もちろん知っている。「清水君もご苦労様。急なことだったが、前宣伝としては上々かな?」 その言葉に、壮一も力強く頷いた。 「手ごたえは十分だと思います」「そうか、あとはもう仕上げるだけだな。社長にもそう伝えるよ」そして、日葵と壮一の横を通り過ぎるとき、近藤は小声で言った。 「二人とも、頑張っていたって伝えておく」 そう言い残してその場を後にした。一日目がバタバタと過ぎ、後片付けも何とか終わり、日葵はホテル近くの居酒屋で名古屋のスタッフや澤部たちと食事をしていた。「あそこの会社の……」 イベントの話題で盛り上がる中、日葵は座敷の隅で笑顔を浮かべながら耳を傾けていた。 そんなとき、上座にいた壮一が席を立つのが目に入った。「チーフ、お手洗いですか?」 酒が入っているせいか、スタッフの声が少し大きめに響いた。 「ああ」 柔らかな笑みを浮かべて席を外す壮一に、日葵は違和感を覚え、そっと席を立った。(やっぱり……)案の定、壮一はレジで会計をしていた。「チーフ」 その声に振り向いた壮一は、日葵にだけわかるように、少し表情を歪めた。「仕事するつもりですよね?」 じっと視線を向けると、壮一は諦めたように息を吐いた。「どうしてバレるんだよ」 呟くように言ったあと、今度は壮一が日葵を見た。「長谷川はもう少し楽しんでいけ。明日もあるから、あまり遅くなるなよ」 それだけ言うと、踵を返して店を出ていった。 日葵は無言でその背中を追いかける。「ついてこなくていい」 冷たく突き放すような言葉にも、日葵は答えなかった。「どこまでついてくるつもりだ?」 ホテルの部屋の前で、さすがに日葵も足を止めた。「仕事するんですよね?」 「お前、俺の部屋に入るのか?」ドアノブに手をかけたまま静かに問いかけられ、日葵は唇を強く噛んだ。「だって、仕事でしょ? 昨日も寝てないだろうし、顔色だって……」 そこまで言って、日葵は自分の言葉に気づいて止まった。(私、なに言ってるんだろう……)廊下を行き交う人々が、チラチラと視線を向けてくる。 こんなホテ
「どうしてだろうな。日葵の期待を裏切りたくなかったのかもな」「期待?」日葵は自分でその言葉を発してみて、昔の壮一は日葵にとってヒーローだったことを思い出した。いつもなんでも完璧で、余裕があって。その陰に努力や苦労があったことなど想像もしていなかった。いつも後ろをくっついて、「すごいすごい」と頼りっぱなしだった。「ごめんなさい」そんな自分に、日葵は言葉が零れ落ちた。「どうして日葵が謝るんだよ」壮一があまりにも穏やかに言葉を発したことで、日葵もホッとして言葉を続けた。「だって、昔の私って迷惑かけてばっかりだったでしょ。なんでも頼ってばかりで。それが無理をさせてた……」壮一の思っていることなど一ミリも考えることなく、自分の気持ちを押し付けてばかりだったように思った。「それは違う」壮一は少し考えるような表情を見せ、日葵は言葉の続きを待った。「日葵の前では、完璧でありたかったから。だから――言い訳にもならないけど、あの時、何も言わずにアメリカへ行ったのかもしれない。すまなかった」日葵は何をどう答えて、どう反応すればいいのかわからなかった。(このあいだはどうして謝ったのかあれほど気になっていたのに……)聞いてしまったことを、なぜか後悔する自分を感じた。今までの苛立ちも、苦しみも、恨み言も、言葉にすることが出来なかった。完璧でいるために私から離れた?その意味を日葵は考えていた。しばらく無言の時間が過ぎたが、すぐに仕事の話になり、気づけば会場へと着いていた。「すぐに合流して準備をしよう」壮一の言葉に、日葵もトランクから荷物を抱えると会場へと入った。最大級のイベントはもう始まっており、会場はすごい熱気にあふれていた。プレスリリースまではまだ日があるが、今回いろいろなところからの問い合わせもあり、急遽ブースを出すことになったらしい。「清水チーフ!」名古屋支社からもたくさんのスタッフが慌ただしく対応しており、壮一を見てそのスタッフたちがホッとしたのが日葵にも分かった。「お疲れ様」壮一はいつもの余裕の笑みを浮かべ、スタッフに指示を出している。そんな様子を少しの間足を止めて見ていた日葵は、「長谷川!」その声で我に返ると、持ってきたグッズの見本やノベルティの搬入を始めた。「うわ、それかわいい」すでにブースにいたカップルが日葵の手元
昨夜の崎本のことも、今日からの壮一との出張も、すべてが気が重く日葵は足取り重く駅へと向かっていた。ぼんやりと歩いていると、車のクラクションが後ろから聞こえた。その音に振り向くと、横に静かに壮一の車が止まる。「長谷川」ハンドルに片手を掛け、窓から呼ぶ壮一に日葵は何とも言えず複雑な心境が覆う。「おはようございます。チーフ」なんとか仕事用の笑顔を張り付けると、壮一の顔をみることなく頭を下げた。そんな日葵の様子に、小さく壮一が息を吐いたことなど日葵は知らない。「おはよう。今日は悪いな。乗ってくれ」「大丈夫です」無意識に零れ落ちた自分の冷たく低い言葉に、日葵は後悔しても遅い。チラリと壮一を伺えば、表情を変えることなく日葵をみていた。「そんな訳にいかないだろ? 急に柚希の代わりに無理を言って行ってもらうんだから」その言葉に日葵の心の中はザワザワと音を立てる。本当は柚希と行きたかったのではないか? 自分とは行きたくないのではないか。そんな子供のようなことを思ってしまった自分が情けなくなる。グッと唇を噛んだ日葵に、壮一は静かに声を発した。「じゃあ乗ってくれ。頼む」私情を入れているのは自分だとは日葵もわかっていた。でも駅までなら電車でも変わらない。その気持ちも譲れなかった。このざわつく気持ちで壮一と同じ空間にいたくなかった。「でも、電車でもさほど変わりませんし」その言葉に、壮一は視線を外すと大きなため息を吐いて呟いた。「やっぱりな……」その言葉に、日葵は運転席の壮一を見た。「急遽、簡易的だがブースを出すことになって、昨日も遅くまでノベルティとかの確認があって、俺と柚希は車で行く予定だったんだよ」その言葉に日葵は啞然とした。「そうだったんですか……申し訳ありません。お手伝いもせず帰って」崎本と食事をしていたころ、柚希はずっと仕事をしていた。そして体調を崩したと知り、日葵は罪悪感が広がった。そんな思いで俯いた日葵に、壮一が運転席から降りるのがわかった。「お前の仕事じゃないだろ。気にするな」そう言いながら、壮一は日葵のもとへと来ると、日葵から荷物を取り上げ、さっと後部座席に乗せた。そこまでされてはもう何も言うことなどできなかった。日葵は諦めたように、壮一の車に乗り込んだ。しばらく無言の車内に、最近聞きなれた音楽が響く。
なんとなく落ち着かない気持ちで食事を終え、送るといってくれた崎本の車の中。信号が黄色に変わり、ゆっくりと停車すると静かな車内で崎本の声が響いた。「また今度……」しかし崎本の言葉は、日葵のカバンの中から鳴った着信音に遮られた。ディスプレイの表示は〝清水チーフ"。そっと崎本を見ると、小さく息を吐いて「出て」と言葉を発した。仕事以外の要件で電話があるはずがないと、日葵はゆっくりと通話ボタンを押す。『お疲れ様。遅い時間に悪い』少し疲れた壮一の言葉に、日葵も「お疲れ様です」と返した。『今いい?』いいかと聞かれれば、かなり微妙な空間だったが、そんなことも言えず日葵は「はい」と返事をした。『明日からの名古屋なんだが』「はい、柚希ちゃんが行く予定の?」冷静に言葉を発することが出来ただろうか?そんなことを思いながら日葵は壮一の言葉の続きを待った。『行ってくれないか?』「え?私が名古屋の出張に泊りで?」その言葉に「え?」と崎本が言葉を発して、日葵はチラリと崎本を見た。『……誰かと一緒?』静かに響いた壮一の声に、日葵は答えることが出来ず、話を逸らした。「柚希ちゃんはどうしたんですか?」『ああ、さっき熱を出したと連絡があった。柚希の代わりになるのは……申し訳ないが長谷川しか無理だから』その言葉に日葵はギュッと唇をかみしめた。仕事なのはもちろんわかる。断る権利も、権限ももちろんない。体調を崩したのは柚希で、残念な思いをしているのも柚希だ。「わかりました」静かに答えると、「じゃあ詳細はメールする」それだけをいうと少しの無言のあと、無機質なトーン音が聞こえた。日葵はその場に崎本がいることも忘れ、憂鬱な気持ちでスマホを見つめていた。いつのまにか、いつも送ってもらう場所へと車は停車していた。「すみません」かなり自分の世界に入り込んでいた日葵は、ハッとして崎本を見た。ハンドルをギュッと握りしめて、俯いていて崎本の表情は解り知れない。「ありがとうございました」なぜか重たい空気に、日葵は慌ててシートベルトを外すとドアノブに手をかける。それと同時に後ろから腕を引き寄せられた。ハッとして振り返ると、日葵は崎本の腕の中だった。「え? 部長?」その状況が理解できず日葵は戸惑いの声を上げた。「行くな……って付き合ってても言えないけど、行って
それからも、日葵の気持ちなどお構いなしに仕事は降りかかる。あの謝罪の意味すらわからないまま、時だけは過ぎていった。時間を見ればもう15時を回っていて、日葵は昼食をとっていないことを思い出して、小さく息をつくと席を立った。「長谷川さん」そんな時、日葵のデスクにやってきた柚希に笑顔を向けた。「どうかした?」「少し教えていただきたいんですけど、今いいですか?」柚希は自分のノートPCを日葵のデスクに置くと、画面を見つめる。「もちろんよ。どれ?」「この出張のホテル申請なんですけど……」その言葉に日葵も驚いてその画面を見た。「出張?いつ?」「それが、チーフの急な指示で明日名古屋なんです」少し不安げな柚希の言葉に、日葵は内容を確認する。「え?あの名古屋であるゲームフェスティバルよね?」「はい」明日、明後日と大きなゲームのイベントが名古屋であり、それの視察と、挨拶周りのための出張だ。役員一人と、チーフの壮一、営業部で大手メーカーとも付き合いが長い、課長である澤部、そしてアシスタントで澤部と同じ部署の女性社員――のはずだ。どうして柚希?という疑問が日葵の中に沸き上がる。「確か、営業部の人が行くはずじゃなかった?」今の現状から、壮一は責任者として行かなければいけなかったが、この部署からは壮一以外行かない予定になっていた。「はい、急に専務がその女性社員では、もしも詳しい話を振られたときにチーフだけでは大変だろうということになったみたいです」「そう……」「他の皆さんは忙しいですし、私なんですかね?」その言葉に日葵はハッとして笑顔を向ける。壮一と柚希が泊まりで出張に行くことが、どうしてこんなに気になるのか……。このあいだ、頼りにしてると言ったにもかかわらず、この重要な仕事を柚希に頼んだことがショックなのだろうか?自問自答しても答えは出ず、日葵は柚希に申請方法を説明した。「柚希ちゃん、がんばってね」笑顔で言ったつもりだったが、自分がどういう顔をしているかわからなかった。しかし、そんな日葵の思いなど、まったく気づいていないようで、柚希は少しだけ言葉を選ぶような表情をした。「仕事なので、こんなことを言ってはいけないと思うんですけど……」少し話すのを躊躇した柚希に、日葵は首を傾げた。「ここのところ、チーフすごく疲れてますよね。そばでお世話できてう
おはようございます」明るく元気な声が聞こえて、日葵はハッとして振り返った。「柚希ちゃん、おはよう」いつもの出社時間が近づいていたことに気づき、まだ落ち着かない気持ちをなんとか整えると、目の前の仕事に取りかかった。そんなとき、周りの雰囲気がピリッと引き締まったような気がして、日葵は顔を上げた。「手が空き次第、ミーティングルームに集まってくれ」その声に視線を向けると、部屋から出てきた壮一が颯爽と歩いてきた。さっきとは別人のように、いつも通り完璧な壮一がそこにいた。シャワーも浴びたのだろう。スーツも違うものに着替えられていて、常に泊まる準備ができていることに日葵は気づく。途中入社で、社長や会社の期待を一身に背負い、失敗が許されないこの状況でも、弱音ひとつ吐かず、常に冷静に対処してきた壮一。その言葉に、一斉に返事が返り、スタッフたちはミーティングルームへと向かっていく。日葵も、目の前の作業に区切りをつけてそのあとに続いた。ミーティングルームに入ると、大きなモニターには広大な緑が広がる世界。高台からその景色を見下ろす、ひとりの男の子と女の子。そして、真っ白な鳥が空へと羽ばたいていた。「The beginning new world」――新しい始まりの世界。企画段階で知ってはいたが、こうして映像として目の前に現れたのは初めてで、日葵はその世界観に釘付けになる。「まだ未完成だが、ここまでで意見を聞きたい」壮一の言葉に、技術スタッフをはじめ、何十人ものメンバーが目を輝かせて頷いた。一人の少年が、襲いかかる敵に立ち向かい、仲間を増やしながら戦っていく。構造自体は、どこか既視感のあるRPGだが、今回は会社の威信をかけ、美しい映像・音楽・クオリティに徹底的にこだわっている。今までに見たことのない臨場感、命を宿したようなキャラクター。その完成度は、ゲームの範疇を超え、まるで一本の映画を観ているようだった。短い映像だったが、気づけば、思わずため息が漏れていた。すっかりその世界に引き込まれていた日葵は、周囲から意見が出始めたタイミングでようやく我に返る。慌てて記録をとろうと、パソコンのキーに指を走らせた。数時間にわたるディスカッションもようやく終わり、各自が自席へと戻っていくのを見送りながら、日葵は上層部に提出する資料の構成を頭の中でまとめ